天門教会十一月第一週 聖日永眠者記念礼拝【霊魂のいのちは御言にある】2025年11月2日(日)10:30~12:00


タイトル【霊魂のいのちは御言にある】


説教: 貴村かたる牧師

聖書
創世記2章16節~17節

礼拝説教 音声:
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招詞
詩篇:23篇1節~6篇
23:1主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。

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主の祈り
天にまします我らの父よ
願(ねが)わくは御名(みな)を
崇(あが)めさせたまえ
御国(みくに)を来たらせたまえ
 御心(みこころ)の天になるごとく 
地にもなさせたまえ
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を 
今日も与えたまえ
我らに罪を犯(おか)す者を 
我らが赦(ゆる)すごとく
 我らの罪をも赦したまえ
我らを試(こころ)みにあわせず 
悪(あく)より救いだしたまえ
国と力と栄(さかえ)とは
限りなく汝(なんじ)のものなればなり  
アーメン


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聖書:創世記2章16節~17節(新改訳2017)


2:16神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


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礼拝賛美
音声:
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2025年11月2日(日)10時30分
十一月第一週 聖日召天者記念礼拝

司  会 / 依田幸子
奏  楽 / ヒムプレヤー
説  教 / 貴村かたる

前  奏 /
招  詞 / 詩篇23篇
賛  美 / 讃美歌二篇 194番(おおみ神よほめまつれ)
主の祈り /
使徒信条 /    
祈  祷 / 司会者
賛  美 / 聖歌 498番(うたいつつ歩まん)
聖  書 / 創世記2章16~17節
説  教 /【霊魂のいのちは御言にある】
賛  美 / 聖歌 640番(いつかは「さらば」と)
感謝献金 /聖歌 638番(やがて天にて)
頌  栄 / 讃美歌 543番(主イエスの恵みよ)
祝  祷 / 牧師
後  奏 /
受付:

午後 小平教会墓地 墓前礼拝


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週報から➧➧
コラム  「召天者記念礼拝」  かたる牧師
神様の大いなる恵みと、聖霊の力が満ちていることを心から感謝いたします。今日も礼拝で、愛する聖徒の皆さんに「誰にでも必ず近づいてくださる神様の摂理」についてメッセージを語りました。だからこそ私は、誰も容易に入ることのできない、針の穴のように狭く険しい天国の門を、必ず通過したいと切実に願っています。
老いることも、病を得ることも、恥ずかしいことではありません。それらは、神様が私たちに与えてくださった「永遠への時刻表」なのです。

今日は召天者記念礼拝です。
それは、やがて私たちにも訪れるその日を備えるようにという、神様の愛のメッセージです。
 私たちが備えるのは、亡くなった方に着せる白装束ではなく、自分の魂に「麻布の衣」を着せることです。
すなわち、神の血に染まった御言葉と聖霊に従い、この世のものよりも神をより深く愛する生き方を選ぶことです。外見を重んじ、満ち足りた生活に安住するよりも、
もし今夜、あなたを迎えに来る天使の手が差し伸べられたなら、その手をしっかり握って、喜んでパラダイスに入る者でありたいと思います。
 パラダイスは三番目の天といったので、 最初の天は万有で、 二番目の天は万物の世界である宇宙の大空で、 三番目の天は万有でもなくて大空でもない宇宙の中に用意された生きた霊だけが住む所のような、万物の天と万有の天その中間にある所で、 私たちの主イエスも3日の間そこに留まって休まれてそこから出てきて、 父なる神から出てこられた御言葉、 すなわちドゴスという人の子は万有の天に昇りました。
その三番目の天というパラダイスには、 イエスが十字架の上で招いたその強盗とともにステパノもそこにいて、 私たちより先に行った偉大な聖徒が休んでいます。私たちもやがて、そこに共にいる者とされたいのです。どうかさらに熱心に自分の魂を愛し、さらに熱心に神様を愛してください。シャローム。


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週報から➧➧
「きょうの御言葉」
【霊魂のいのちは御言にある】
  創世記 2章16節~17節 

神は私たちを肉体と霊を持つ者として造られました。肉体は食物によって生かされますが、霊は神の御言によって生かされます。
創世記で神はアダムに命じられました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」
その命令に従うことこそ、霊が生きる道でした。
しかしアダムは神の言葉を軽んじ、御言に耳を傾けなかったため、霊が死にました。
今も多くの人々は、目に見える肉体だけを自分と考えています。
 けれども人には、神から与えられた霊があり、その霊を生かす力は神の言葉にしかありません。
イエス・キリストは言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは霊であり、いのちである。」
御言はただの知識や慰めではなく、霊を生かす「いのちの言葉」です。
御言を聞くことは信仰の始まりです。
耳を傾けるとき、信仰が生まれ、心に謙遜が育ちます。そして御言に従うとき、肉体には負担があっても、霊が真に生きるのです。
神は人に自由意志を与えられました。
私たちが自ら進んで神の言葉に従うとき、
霊は新しくされ、永遠のいのちにあずかります。
私たちの信仰生活の希望は復活です、
 キリストが復活の初穂となられたように、キリストに属している私たちはその方が再臨された時に第一の復活に参加します。永眠者記念礼拝にあたり、私たちは思います。肉体は滅びても、御言に生かされた霊魂は永遠に生きる。だからこそ、今日も神の言葉に耳を傾け、そのいのちの光の中を歩みたいのです。アーメン


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 説教原稿
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天門教会聖日礼拝【霊魂のいのちは御言にある】2025年11月2日(日)
聖書:創世記 2章16~17節

本文

私たちの神は本当にやさしいお方です。神は太陽や雨を与えてくださり、正しい人も間違いをする人も、すべての生き物が生きていけるようにしてくださっています。
神は、すべての人に公平に気を配っておられます。どんな人でも、体を保つためには食べ物が必要です。このことに例外はありません。
しかし、神は多くの生き物の中で、人間にだけ特別に「霊(魂)」を与えてくださいました。だから私たちは、生きた存在として神様とつながることができるのです。

人は動物と同じように体を持って生まれましたが、神は人にだけ特別に「霊(魂)」を与えてくださいました。だから人は、体だけでなく、心と霊をもって永遠に生きるように造られたのです。

私たちが信じている希望は「復活」です。
けれども、それはラザロのように一度死んでから再び生き返ることとは違います。
ラザロの体は再び朽ちていきましたが、神の霊を受けた人の復活は、まったく新しいいのちに生まれ変わることです。私たちの体はちりから造られ、一度は死にますが、神の力によって霊が新しい体へと変えられるのです。

イエス様は復活された後、ご自分の体を弟子たちに見せてこう言われました。
「霊には、わたしのような肉や骨はないのです。」(ルカ24:39)
同じように、今の私たちの霊にも肉や骨はありません。霊は目に見えませんが、神様に生かされている命です。
けれども、復活の時には、霊が一瞬のうちに新しい体に変えられます。
その時の体は、今の私たちの体とは違い、神様の力によって時や空間を超えて動くことができます。
イエスが復活後、戸が閉まっていた部屋の中に入られたように、それは神のいのちに満たされた体です。
たとえ体が食べ物をとっていても、ある栄養が足りなければ病気になります。
どんなに健康そうに見えても、自分の好きなものだけを食べていると、やがて体をこわしてしまいます。
それと同じように、私たちの霊も、神様の言葉という栄養をバランスよく受け取ることが大切です。

マタイの福音書6章19~21節
「自分のために地上に宝をたくわえてはいけません。
そこでは、虫やさびで傷み、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分のために、天に宝をたくわえなさい。
そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」

自分のために、この世のものばかりを集めないようにしましょう。
お金や物はいつかなくなってしまいます。
けれども、神のために生きる時、それが天に積まれる本当の宝になります。
あなたが大切にしているものが、あなたの心を動かしていくのです。

たとえ体が食べ物をとっていても、ある栄養が足りなければ病気になります。
どんなに健康そうに見えても、自分の好きなものだけを食べていると、やがて体をこわしてしまいます。
それと同じように、私たちの霊も、神の言葉という栄養をバランスよく受け取ることが大切です。

イエス様はこう言われました。
「自分の宝を地上にためてはいけません。
そこでは虫やさびがそれを傷つけ、盗人が穴をあけて盗んでしまいます。
むしろ、自分の宝を天に積みなさい。
そこでは虫もさびもつかず、盗人も盗むことはできません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」

イエス様はこう言われました。
「体のあかりは目です。もし、あなたの目が健全なら、全身は明るくなります。
けれども、もし目が悪ければ、全身が暗くなってしまいます。
もし、あなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどれほど深いでしょう。」(マタイ6:22–23)
このみことばは、私たちの「心の目」がどこを見つめているかを教えています。神様を見つめるなら、心も人生も明るくされます。

イエス様は「宝のたとえ」を通して、霊的な栄養失調について教えられています。
人は年を取ると目が見えにくくなりますが、その原因の一つは栄養のかたよりです。
同じように、心や霊も神様の言葉という栄養を受け取らなければ、弱ってしまうのです。

私たちの信仰生活も、これと同じです。
この世の物やお金を使うときも、まず一番良いものをイエスのために用いることから、
本当に豊かな信仰生活が育っていくのではないでしょうか。

私たちの信仰の希望は「復活」です。
イエス・キリストが最初によみがえられたように、キリストに属する私たちも、
主が再び来られるときに「第一の復活」にあずかることができます。
それは、永遠のいのちへと導かれる希望です。

聖書は、復活の後に受ける「栄光」は人によって違うと教えています。
ある人は太陽のように輝き、ある人は月のように、またある人は星のように光ります。
それぞれが神さまからいただく輝きをもって、永遠のいのちの中で生きるのです。
同じ星でも、明るく輝いてよく見える星もあれば、少し暗くて見えにくい星もあります。
それと同じように、私たちが復活する時に受ける栄光も、それぞれ違います。
神は一人ひとりにふさわしい光と輝きを与えてくださるのです。

私たちが信仰生活を送るのは、「復活への希望」があるからです。
信仰とは、ただ体のために生きることでも、人にほめられるために良い行いをすることでもありません。
そうした生き方は「宗教的」ではあっても、本当の信仰とは少し違います。
私たちは、神がくださる永遠のいのちを信じ、その希望に生きるのです。

私たちは、ただ宗教的な人ではありません。
私たちは、神を信じ、イエス・キリストの復活の希望を持つ「神の子」です。
この希望こそが、私たちの生きる力であり、信仰の喜びなのです。

もし、私たちが復活の希望をしっかり持っているなら、
体のために食べ物をとるように、霊のためにも神の言葉を受け取らなければなりません。
神が与えてくださるすべてのみことばを、自分の都合で選んだりせず、素直に従うことが大切です。

信仰がある人でも、ない人でも、すべての人には「肉体の欲」があります。
そして、神の霊である「聖霊」にも願い(情熱・思い)があり、この二つの間にはいつも戦いがあります。
聖書(ガラテヤ5章17節)は、この葛藤の中で、私たちがどちらに従うかが大切だと教えています。
簡単に言えば、神の御言葉と聖霊の思いは同じ方向を向いています。
もし私たちが、自分の霊魂に神の言葉をしっかりと留めておきたいなら、
自分中心の思いや欲望(肉の情欲)をおさえ、神の思いに従うことが大切です。

ガラテヤ人への手紙 5章17節
「肉の願いは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。
この二つは互いに対立しているので、あなたがたは自分のしたいことができないのです。」
ガラテヤ人への手紙 5章24節
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」

ガラテヤ人への手紙5章24節には、こう書かれています。
「キリスト・イエスに属する人は、自分の肉を、さまざまな欲望や願いとともに十字架につけました。」
つまり、キリストを信じる人は、自分のしたいことも、したくないことも、すべてを神にゆだねて、十字架にゆだねるということです。

神は人を造られたとき、まず体のための食べ物を与えられました。
そして次に、人を「生きた霊」とされ、霊のための食べ物として、神の口から出る「御言葉)」を与えてくださいました。
神の言葉は、私たちの霊を生かす命の糧(かて)なのです。

イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる』と書いてある。」

「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
その木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

神様が御言葉を霊の食物として与えられたのは、
その御言葉にだけ、私たちの霊を生かす力があるからです。
善悪の木の実に毒があったのではなく、
神の言葉に従うことこそが、いのちの道だったのです。

神はアダムをエデンの園に置き、その園を管理させました。
ある人は「エデンの園=パラダイス」と考えますが、実際にはそうではありません。エデンの園は、神が人と共におられ、働きと責任を与えられた場所だったのです。
神は、園のすべての木の実をアダムに与え、自由に食べてよいとおっしゃいました。
しかし、「善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない」と命じられました。
それは、神の言葉に従うことを通して、真のいのちを学ばせるためでした。

神の言葉は「命令」です。
たとえ「食べたい」という気持ちが湧き上がってきても、食べてはいけませんでした。
神の戒めを破ることは「死」を意味します。
神の御言葉は、私たちの肉体の欲望とは正反対の方向を示しています。

神の御言葉は「命令」です。ですから、聖書の言葉に向き合うときに、詩や文学を鑑賞するような気持ちで読んではいけません。
詩や文学は人の心を感動させることはできますが、人を導く「命令」にはなりません。
聖書の御言葉は、感動ではなく「従うべき命令」として与えられています。
聖書には、神の御言葉が書かれています。だからこそ、聖書はこの世のどんな本とも違う、特別な本です。神の御言葉を「命令」として受け入れる人には、永遠のいのちが与えられます。

聖書には神の御言葉があります。そして、その御言葉の中に「いのち」があると信じること、
それが私たちの信仰です。神の言葉は、読む人の心と霊を生かす力を持っています。

聖書を開いて読んだり、聞いて心が喜んだりしても、それだけでは霊の食物にはなりません。
食べ物を見て「おいしそう」と感じても、実際に食べなければ体に栄養が入らないのと同じです。
聖書の御言葉も、心に受け入れ、信じて従うことで初めて、霊の栄養となります。
神の御言葉も、私たちの霊魂が「戒め」として受け止めなければ、
その御言葉は私たちの霊にいのちを与えることができません。だからこそ、御言葉は「教え」ではなく「戒め」として、しっかりと心に留めることが大切です。

神が人を造られたとき、「神の戒めに従うことができるように」人に 受動性 と 排他性 の二つの性質を与えられました。それは、神の命令を自ら選び取ることで、いのちを得るようにされたためです。この二つの性質は、言いかえれば 自由意志 とも言えます。

たとえ聖書を何十回読んだとしても、また聖書の言葉をすべて覚えたとしても、もしその御言葉が霊魂の中にとどまらず、命令として行動に結びつかないなら、何の意味があるでしょうか。
御言葉は知識ではなく、従うことでいのちとなるのです。

(ヨハネの福音書12章47~50節)
「47 わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。
わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たからです。
48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、彼をさばくものがあります。
わたしが語ったことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
49 わたしは自分から話したのではありません。
わたしを遣わされた父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すかを命じてくださったのです。
50 そして、わたしは、その父の命令が永遠のいのちであることを知っています。
ですから、わたしが話すことばは、父がわたしに命じられたとおりに話しているのです。」

イエスが私たちに語られた御言葉は、父なる神の言葉です。父の言葉は「命令」であり、
その命令に従わない者は、その言葉によって裁かれます。しかし、イエス様の御言葉を守る者には、その言葉が永遠のいのちとなります。

(ヨハネの福音書6章63節)
「いのちを与えるのは御霊です。
肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

この御言葉が語られたとき、その場には約70人の弟子たちがいました。彼らは、イエスに遣わされて悪霊を追い出し、伝道の働きもしていました。しかし、イエスが霊的な御言葉を語られると、その意味を悟ることができずに、「こんなことは受け入れられない」と言って、
多くの者がイエスのもとを離れて行ってしまいました。

神の言葉を悟り、真理にたどり着けるということは、本当に大きな恵みです。それはイエスの時代も、今の時代も変わることのない、普遍的な真実です。

(ヨハネの福音書6章68節)
「シモン・ペテロが答えた。
「主よ、私たちはだれのところに行きましょう。
あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

私はよく言いますが、自分の理解や知識だけで聖書のすべてを判断し、それに基づいて行動することはとても危険です。聖書が私たちに語っているのは、「耳のある者は聞きなさい」ということです。つまり、自分の考えではなく、神の声に耳を傾けることが大切なのです。

神が私たちに求めておられることは、御言葉を「聞いて、悟り、行うこと」です。
聞くだけで終わらず、悟ったことを実際の行動に移すこと、それが信仰の歩みです。

(ヤコブの手紙2章19節)
「あなたは神はただひとりだと信じています。それは立派なことです。
ですが、悪霊どももそれを信じて身震いしています。」

聖書を読む多くの人は、「神は唯一の方だ」と知っています。けれども、聖書はこうも語っています。「その程度の信仰なら、悪霊でさえ持っている」と。ただ“知っている”だけではなく、“従って生きる”ことが大切なのです。

(ヤコブの手紙2章20、22、26節)
20節 ああ、愚かな人よ。行いのない信仰がむなしいことを知りたいのですか。
22節 あなたが見ているとおり、彼の信仰は行いとともに働き、信仰は行いによって全うされました。
26節 たましいを離れたからだが死んでいるのと同じように、行いのない信仰は死んでいるのです。」

聖書は、悪霊が持っているような「死んだ信仰」では、人の霊魂を救うことはできないと教えています。私たちは、神の御言葉をただ聞くだけでなく、聞いて悟り、そして他の人に伝えることが、自分の霊魂が生きる道だと信じます。

神様は人間を造られたとき、
「種を持つ草」や「実を結ぶ木」を食物として与えられました。しかし、アダムにはこう命じられました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。その命令を破るなら、あなたは必ず死ぬ。」これは、神の愛と秩序を教える大切な警告でした。

今の人々は、目に見える「肉体」だけが自分だと考えています。そのため、自分に「霊」があること、そしてその霊が生きているのか、あるいは栄養不足で弱っているのかを知ることができません。しかし、私たちは人間には「肉体」と「霊」の両方があることを知りました。
そして、やがて「復活」することも信じています。だからこそ、復活の時に受ける栄光のために、
神の言葉を選り分けず、すべてに従うことが大切なのです。肉体にとって、神の命令を守ることはときに負担に感じます。しかし、その負担を受け入れて神の戒めに従うとき、私たちの霊は初めて真に生きることができるのです。

もし私たちが、自分の霊を生かそうとしなければ、神様もその霊を無理に生かすことはなさいません。先ほどお話ししたように、神は私たちに
「受動性」と「排他性」──つまり「自由意志」を与えてくださいました。
だから、自分の自由意志を用いて、自分の霊を生かそうとすることが大切なのです。

(申命記30章19~20節)
「わたしは、きょう、あなたがたに、いのちと死、祝福とのろいを置く。
あなたは、いのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生きるために。
あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。
主こそ、あなたのいのちであり、あなたの日々を長く生かされる方だからである」。


私たちは、自分の霊魂を生かすために「いのち」を選ばなければなりません。霊魂を生かす力は、ただ神の御言葉の中にあります。霊を生かすためには、神の言葉を心(霊魂)に受け入れ、肉体を生かすためには、食物をいただきます。そして、その御言葉を世の中に伝えることこそ、神が喜ばれる良い信仰生活ではないでしょうか。

私たちは、人の子であるイエス様の肉と血をいただきました。それゆえに、私たちのうちには「真の謙遜」が表れるべきです。イエス様は、父なる神の前でまことに謙遜になられました。もしアダムが主のように謙遜であったなら、聖書の物語も全く違ったものになっていたことでしょう。

今日の分かち合いを通して、私たちが学ぶべきことは、神の言葉によく耳を傾けることです。
耳を傾けることから信仰が生まれ、やがて心に謙遜が育っていくのではないでしょうか。

アダムが問題を起こしたのは、神の言葉をよく聞かなかったからです。私たちは、今日の分かち合いの中から学びましょう。神の言葉をよく聞き、悟ることこそ、自分の霊を生かす唯一の道であり、また、自分の愛する人たちが生きる道でもあるのです。

この一週間も、神の言葉に深く耳を傾けて歩みたいと思います。神の恵みとして与えられた霊魂の「永遠のいのち」は、神の言葉を深く悟ることから始まります。繰り返しになりますが、信仰を持つ私たちは、日々、神が語られる「いのちの言葉」に謙遜に耳を傾け、その御言を悟ることのできる、良い信仰者を目指して歩んでいきたいのです。アーメン
最後に主の祈りを祈りましょう。




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